ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下から77年目の夏、核兵器を全面禁止する条約が発効される一方で、核兵器使用の脅しをかける国が生まれています。国連事務総長は「人類は今、ヒロシマとナガサキの教訓を忘れつつありる」と警鐘を鳴らしています。
今日紹介するのは、被爆77年目に初めて証言した竹本秀雄さんのお話です。
【中国放送「広島家族」より作成】
原爆が落とされた直後の広島を記録したフィルム。兄に背負われ、頭から左ほおにかけて包帯を巻いてカメラを見つめる子ども。
この子どもは、生きているのか。亡くなっているのか。生きているなら、この後どんな人生を歩んだのか・・・。中国放送(RCC)は26年間、放送で呼びかけ探し続けました。しかし、反応はありませんでした。
調査から27年目の今年、連絡が入りました。「その子どもは私です。生きとりました」今年80歳になる竹本秀雄さんからです。
3歳の竹本さんは、あの日、爆心地から1キロの自宅で被爆。家の下敷きになっていたところを兄に助けられ、病院に治療を受けに行きました。写真はその帰りに撮られたものとみられます。
一命は取り止めたものの、竹本さんの左ほおの傷は骨がみえるほど深く、傷あとはケロイドが残りました。(やけどの後に皮膚の盛り上がり) 姉の一人は全身に大やけどを負い亡くなりました。竹本さんは顔に残るケロイドに「ピカドン」のあだ名を付けられ、辛い小学校時代を過ごしました。その後も続く苦しく辛い生活に。竹本さんはいまわしい過去を封印し、口を閉ざして被爆の人生を歩んできました。
7月10日、東広島で開かれた「原爆展」。竹本さんは初めて公の場で自身の被爆体験を明かしました。涙でつまりながらの77年越しの告白。開かせたのは、核兵器をなくそうと運動する身近な友人たちの励ましと、ロシアによるウクライナ侵略でした。「やっぱり戦争はいけない。泣くのは市民です。あのときの恐怖がよみがえるいま、これからも証言を続けていこうと心に決めています」
「やっと呪縛が解け、肩の荷がおりた感じです」・・・核なき世界の道を切り開いてきた被爆者たちの訴え。伝え語り継いでいくことは、ますます重要になっています。
【校長】